
今、「近代国家vs.テロリスト」の戦争が起こっています。
私達は無条件で「テロリスト」を悪だと思います。
実際彼らは人殺しであり、非人道的なテロル(恐怖)を撒き散らします。
でも……どうして彼らはそんなことをするのでしょう?
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忘れ去られた報道先・アフガニスタンは今どうなっているのでしょうか?少ない報道によると、ずいぶん大変なことになっているようです(ソースの裏を取っていないので、この記事の確実性はあまり高くないかもしれません。申し訳ありません)。 タリバン政権が倒され自由と平和を手に入れたはずのアフガンは、結局、治安の悪化に伴い、状況がどんどん悪くなっていってしまっているらしいです。タリバン政権を倒し、新しい政権を外から(民意でなく)置いて、それで後は何もしない米軍……。却って国民を飢えさせることになったのにもかかわらず、正義の戦争に勝利した、と浮かれているアメリカと、その腰ぎんちゃく。実際にはウサマ・ビン・ラディンの身柄を拘束できなかったので目的を達することが出来なかったことになるのでしょうに……。相手国の治安を悪化させ、なおかつテロリストは取り逃がす……。一体アフガン攻撃はなんだったのでしょうか? そして、イラク攻撃です。 イラクも、現在、暴動や強盗、略奪などの最悪の状況になってしまっています。このまま、治安が維持できなかった場合……苦しめられている民衆はこんなことを考え始めるかもしれません。――アメリカが来なければ少なくとも安心して生活できたのだ、と。そして、もし、そんな考え方に人々が捕らえられすぎると、ひょっとしたら「フセイン時代の方がましだった! 」とか「アメリカのせいで我々は苦しい思いをしているのだ! 」といった考えを持つ人々が出るやも知れません。――そうなってしまったら、少なくない人々がテロルをもって自分の主張を通そうとしはじめるかもしれません。 注:TVに映る人はイラク国民のほんの一部です。報道する人・報告する人は、どうしても自分の主観によって事実の一部を抜き出します。これは善悪とかではなく、人間の脳が物事を「意味」に分解して理解・記憶するため、絶対にどうしようもないことなのです。この世には中立報道など存在しないわけです。ですから、アメリカ海軍がスポンサーをしている報道媒体が流す報道はアメリカ海軍にとって都合のいいワンシーンですし、イラク国営放送で報道されてきたものは全て、フセインに都合のよいものでした。……さらに言ってしまえば我々反戦派の人間が出すソースも戦争に反対する視点から取られたものです(同様に戦争準備する人の視点も……)。だから、与えられたソースは誰が、何の意図で私達にそのソースを提供したのか、ということを考察した後ででないと、自分の言葉にするのは危険なのです。もし、その作業をおろそかにしていたら、私達はいつのまにか何らかの他人の言葉を、あたかも自分の言葉と思いこんで、しゃべる存在になっていかねません(いまさら、そんな事言ってもって? ごめんなさい)。 先日、イラクにおいて、濃縮ウランの工場も暴動・略奪によってめちゃくちゃにされ、そこから中身が何か理解していない人々によって、ウランの粉末の入ったドラム缶が持ち出されてしまったとのニュースを聞きました。なんと、持ち出した人のうち一人に聞いてみると、飲料水を貯めるタンクに使用してしまった、との事……もう、せつないですね。 もしも……もしも、こうやって互いに相手を憎む心が加速度的に進んでいったら……? 21世紀の戦争は唯一の超大国対テロルという形にでもなるのでしょうか? もしも、万が一、アメリカにおいて「アラブ人どもはテロリストだ! 」などといった誤認識が広まってしまったら、どうなるのでしょうか? また、中東諸国の一部で「アメリカは我々を搾取する悪の帝国だ! 」と考えるようになってしまったらどうなるのでしょう? イスラエル軍が近代兵器でいくらパレスチナ・ゲリラを攻撃しても、パレスチナ・ゲリラは減りませんでした。むしろそれに巻き込まれたパレスチナ人の子どもが「イスラエルは敵だ! 」と、却ってゲリラに身を投じ、自分の命を捨てて攻撃する自爆テロに走っていってしまっている現状があります。――北風は決して旅人のコートを脱がすことは出来ないのです。 憎しみや怨みの連鎖。自分の大切な人を殺された。だから、奴らに復讐する。――この構図は、9・11においてもパレスチナにおいても同じ事です。 実際問題、同害報復というのは、実は古代からの「正義」「公平」の基準です。よく、ハンムラピ「法典」を指して「『目には目を、歯には歯を』という悪法」と呼ぶ人がいますが、これは大きな間違いです。この方が指し示している同害報復は現代の刑法でも(教育説はこの際除外します)とられているものです。「Aは残虐な方法でBを、殺した、だからAは死刑になるべきだ」「Aは〜〜、だから懲役するように」「Aは〜〜、だから罰金を払うように」……。その人が犯した罪と量刑のバランスがとれている、と判断した時、我々は「法で裁かれた」と思い、バランスがとれていない、と思った時、控訴するわけです。結局はバランスという意味で、どこまでも同害によって「ひどいやつ」に同じ苦しみを味あわせたいものなのです。そして、それは法によって初めて「客観的な公平」による同害報復が可能になるのです。――人は1発殴られたなら2発殴らないと気が済まず、2発殴られたら3発殴らないと、やられっぱなしな気持ちになるものなのですから(ハンムラピ「法典」が「同害」を「彼ら(街の執行人?)」に行わせるのは過剰報復を防ぐ意味もあるのだろうと考えられています)。 国際的な感覚でも、それはそうなのでしょう。互いのトライブを敵と認識し、憎しみの拡大再生産が続く世界。私達は「理屈では」そうあるべきではない、と分かっているのです。みんなが安心して生活できる世界が出来たら、それが理想だと、みな考えているわけです。けれども、国家には国家を裁く上位のシステムがなく、戦争法廷は常に「戦勝者」が「敗戦者」に一方的に罪責をつきつけるものです。 何かがおかしい。みんなそう思っています。……あとは対話をすることしかないと思うのです。敵と思っている相手と対話するのです。対話というのは相手を論破しようと思うことではありません。誰か一人が「敵を論破したい」という誘惑に屈したら、対話は永遠に不可能になります。 現象面であれば、自分がどこまで譲歩できるか、何だけは譲歩してはいけないのか、そこで互いに譲り合うところから対話は始まるでしょう。 そして思想面では、自分がなぜその思想を持つに至ったかという「生の体験」にのっとって自分でなければ語れない言葉をもって相手の心を動かし、また、相手の言葉に自分が動かされなければなりません。対話に参加するものの中に相手の言葉が自分を動かすことをかたくなに拒否するものがいたら、これまた、対話は成立しません。対話の成立とは、なんと不可能なことなのでしょうか……。 それでも、それでも旅人のコートを脱がすのは太陽なのです。 政治家達も、そして、市民一人一人も、どれだけ失敗していっても、対話しつづけるようにならないと……この暴力の連鎖は収まらないと思うのです。 そのためにも、私自身も、口先だけの虚言ではなく、実存をかけてこういった言葉を語れるようになりたいものです。 |
